続・徒然日記

喧噪の東ベルリン

2022年9月21日

『続・徒然日記』
葉山 明彦


今回は30年以上前にベルリンの壁が崩壊した後、喧噪の町と化した東ベルリンを歩いた時の話を書く。ベルリンと言えば今や経済大国ドイツの押しも押されもしない首都だが、かつてはひとつの町が東西圏に別れ、ベルリンの壁を境に内側は資本主義圏、外側は社会主義圏の統治が行われていた。それが1989年11月、自由を求める東側市民によって打ち壊され、東ドイツ政府は統治能力を失った。それから1年もたたないうちに西ドイツの主導で国家統一を実現するが、その間の混沌とした時期に現地へ行って見聞したリアルな話を述べてみたい。

私は1980年代後半から90年代初頭の4~5年、雑誌の特集で何回も欧州に出張取材をしていた。85年のプラザ合意後に急激な円高が進行し、日本のメーカーが海外生産になだれ打つ一方、欧州では各国がEC(欧州共同体)の経済統合に向けて動き出していた。さらに89年11月にベルリンの壁が崩壊すると社会主義圏だった中東欧への市場拡大など話題性がどんどん膨らみ、雑誌で欧州特集を組むと広告掲載の希望が引きも切らない状況となった。そんな中で90年の欧州特集はドイツを中心とすることになり、訪問予定の都市の一つにベルリンを入れた。

当時のベルリンは前述の通り東西圏に分かれており、ベルリンの壁崩壊後は市民も往来ができるようになったが、行き来するにはまだビザが必要だった。西から東へ入る場合、当日24時まで帰還の条件付ビザが5マルクで発券された。通過できる検問所は車の場合チェックポイント・チャーリー、人だけの場合は地下鉄のフリードリッヒ・ストラセ駅だった。

写真:西/東ベルリン出入検問所(地下鉄フリードリッヒストラッセ駅)

6月のある日、私はホテルをとった西ベルリンで午前中に日系企業2社の取材を終え、午後は東ベルリンの見学と知り合いで留学中の日本人ドイツ文学者を訪問する予定を入れていた。地下鉄のフリードリッヒ・ストラセ駅にある検問所(写真)でパスポートを見せて5マルクを払い1日ビザのカードを取得、いくらかの東独マルクに両替した。手続きはとても簡単だった。東ベルリンの地図は前もって取得していて地理は詳しく研究済み。地上に出て少し歩くと「ウンター・デン・リンデン」という標識の大通りに出た。あぁ、ここが森鴎外の「舞姫」に出てくるウンター・デン・リンデンか。菩提樹の下という意味の通りで戦前はベルリンの中心地だったという。それまで東側へは厳しい旅行制限があっただけに、そんな第一歩でもとても新鮮な旅情を感じた。

ただ、走っている車はなんとも時代遅れの古くさいデザイン(写真はトラバント)で、当時の西側感覚でもこんなところに東西格差を認識した。時間が早かったので、ドイツ歴史博物館やトルコの遺跡を山ごとそのまま移設したペルガモン博物館も訪問、少しは観光らしきこともできた。
 
写真:東ベルリン/駐車中のトラバント

夕方になりそろそろ知り合い宅を訪ねてみようと、当時の中心部アレクサンドル・プラッツに移動して知り合いから指示通りのバスに乗り、詳細な道案内と住所を照らし合わせて住まいに向かった。しかし、このころから異変に気づいていた。満員のバスが住宅街に入ると、道に人が寝転んでいるのだ。それもあっちこちに。それとバス下車時に運転手に料金を聞くと、いらないから下りろと言われた。社会主義とはいえ無料ではないはずだが、???…。結果的に無賃で乗車した。さらに食料品店には長い人の列。食品が不足していると容易に想像ができた。

場所は高級住宅街で、住居表示はひじょうにわかりやすく、番地ごとに建物を追っていくとすぐ住居がわかった。5階建てのアパートスタイルのその宅は留学先の大学教授の家だった。知り合いはそこに1年間下宿し、大学院研究室に通っているという。まずは再会を祝ってねぎらいの言葉をかけてくれたが「実はこの辺も最近は治安が悪くて」と切り出し、路上に寝ている人は酔っぱらいで、昼から酒を飲んで泥酔しているという。この時点で半年後に東ドイツの通貨、資産など経済主権を西ドイツに移管し国家統一することが決まっていたが、国民はこの先の仕事や身分の不安をぬぐいきれず、酒に溺れたその残骸が町中に点在していたのだ。さらにはあいさつに来た下宿先の教授子息もその時間にかなり酒が入っていて、「もう呑むのはやめな」と知り合いに諭されていた。それなりの立派な国営系企業にお勤めだそうだが、明日の身がわからずその不安から毎晩酒を手放せないようだ。商店も陳列する品物が減っていて、そんな中でパン屋で早朝、東欧系外国人による買い占めが起こり、昼にそれを高値で転売したことで傷害事件となったそうだ。ネオナチ風の人たちによる外国人排斥運動が起こっていると言い、私には「アジア系は見るとわかるので気をつけたほうがよい」と言っていた。

夕食は知り合いの手料理をご馳走してくれた。パンとスープに肉料理、ワインまで出してくれ、それなりのもてなしを受けた。久しぶりの邂逅に遅くまで居てしまったがタクシーを呼んでくれ、ビザ通りその日のうちにフリードリッヒ・ストラセ駅に戻って無事西ベルリンのホテルに帰った。予想もしない大都市の喧噪化した風体に、国がアナーキー状態になるとこうなるのかという一面を垣間見た。

ドイツの国家統一はその年の10月3日成し遂げられ、東側の負を抱え込んだ新生ドイツは予想通り大不況に陥った。建て直しには10年くらいかかったと記憶している。その後東ドイツ出身のメルケル氏が長らく首相を務め、ドイツは復興しEUの核として存在感を強めた。路上に寝ていたり当日会った人たちのその後わからないが、新生ドイツとともに苦難を乗り越えたことと期待している。

著者プロフィール

葉山明彦

国際物流紙・誌の編集長、上海支局長など歴任

40年近く国際関係を主とする記者・編集者として活動、海外約50カ国・地域を訪問、国内は全47都道府県に宿泊した。

国際物流総合研究所に5年間在籍。趣味は旅行、登山、街歩き、温泉・銭湯、歴史地理、B級グルメ、和洋古典芸能、スポーツ観戦と幅広い。

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