続・徒然日記

激変の上海、原野が高層ビル街に

2022年10月19日

『続・徒然日記』
葉山 明彦


今年は日中国交回復50周年に当たり、冷え込んでいる日中外交ではあるが両国にとって記念すべき年である。私は1985年(鄧小平の改革開放時)に初めて上海を訪れ、以後何度も訪中、その後当時いた会社の支局開設で上海に駐在した。振り返ると初訪から37年の歳月が流れ、中国は大きく経済発展し、国力も強めていまやアジアだけでなく国際社会に大きな影響力をもつに至った。当時と比べるとその変化は天と地くらいに大きく、まさに隔世の感である。今回は私の見てきた上海を振り返って、この間の中国現代史のヒトコマをとらえてみる。

上海は1842年のアヘン戦争後に列強の租界(外国人居留地)となったが、20世紀に入り清朝が崩壊して国民党などが列強を相手に次々と条約改定し、第二次世界大戦が終了するまでにほぼ租界地を回復した。戦後は国共内戦を経て共産党が1949年に中国人民共和国を設立するも政争が続き国家運営は紆余曲折。1960年代後半には文化大革命が発生して、上海では最も過激に運動が展開された。中国は疲弊の一途を辿ったが、毛沢東の死後、鄧小平が国家副主席となって1970年代後半に資本主義的手法を導入した改革開放政策に着手。いま整理すると、私の1985年の上海初取材はこうした歴史の流れの上にあった。

当時は、入国取材するに中国新聞協会を通して必ず協会の付添者を付け、取材先の指定はもちろん泊まるホテルまで指定された。服装もまだ人民服の時代だった。私は広州から中国に入り、上海では外灘の和平飯店に宿を指定された。いまでもクラシックホテルとして人気があり、当時から上海バンスキングという老齢ミュージシャンのジャズ演奏が行われていた。部屋は上階で窓の下はすぐ黄浦江。対岸の浦東地区は原野に資材などが置かれているだけの平坦な土地でまだテレビ塔すらなく、今日の高層ビルが林立する大発展を予期できるものは皆無であった。また、眼下の外灘公園に夜中でも人であふれ返っていたのが不思議だった。当時の上海は工場が多く、3交替勤務だからなのか、あるいは住宅事情がそうとう悪いと聞いていたので、若者が家にいるのを嫌うからなのか。そもそも人口が集中して中心部はものすごく多く、取材にタクシーを使うが道路は人と自転車で埋まり、なかなか進まない。バスはドアを開けたままぶら下がって乗っている人もいる超満員状態で、これはたいへんな町だと思った。

この時は中国の交通部系、対外経済貿易部系のほか上海市系の海運、貿易、物流会社など新聞協会の付添者の通訳で開放経済にどう対応していくのか取材したが、国が外国企業誘致地として指定した経済技術開発区もみておこうと車を手配した。経済技術開発区とは、深圳など経済特区に次いで、全国14都市(のちに54カ所に拡大)に指定された企業誘致で同様の優遇措置を受けられる指定区だが、上海では中心部から離れた場所にある雑草が生い茂って区画化も何もされていないただの原野だった。わざわざ時間を使って見る価値がなかったとその時は思ったが、実はこれが後に我々が上海支局を置く、高層ビルが林立した虹橋経済技術開発区の場所だった。90年代に入ると上海市政府がこの地区の開発に本腰を入れ、デベロッパーがこぞって高層ビルや展示場を建設。日本関係では日本興業銀行の主導で国際貿易ビルが建設され、背後の古北(グーベイ)地区に日本人をターゲットにした居住区造りが進んだ。日本領事館も移転してきたことで、90年代後半には日系企業の集積地となった。あの原野が浦西地区最大の産業区になった。

一方、1990年代は黄浦江対岸の浦東新区の開発も進んだ。前述のように85年には何もなかった原野だったが、上海政府は90年に浦東で明珠塔(テレビ塔)の建設に着工。94年に完成し、これが開発の先掛けとなった。政府の方針に沿って民間の高層ビルが雨後の筍のように建ち始め、日本の森ビルも世界一の高さを目指して97年に上海環球金融中心(ワールド・フィナンシャルセンター)を着工した。当初は2001年完成予定だったが、アジア通貨危機や日中関係の悪化で中断。完成したのは2008年とズレ込んだが、高さ492mは当時中国一高いビルとして「栓抜きビル」の愛称で親しまれた(現在は上海中心大厦に次ぎ上海で2位)。浦東開発に伴って大手企業は本社を浦東に移す傾向が強まった。浦東は15年ほどで原野が超高層ビルに囲まれた経済の中心地に変わったのだった。

21世紀に入ってからの中国の発展は、2008年の北京オリンピックと2010年の上海万国博覧会が節目となった。これらに向けて中国全土の改造が行われ、高速道路や新幹線、港湾の建設、都市部では地下鉄建設や道路の拡張などインフラ整備や民間の高層ビル、マンション建設が各地で行われた。上海では虹橋空港に代わる浦東国際空港が完成し、さらに虹橋も国際空港として併用するため拡張工事が行われた。港湾は外高橋の拡張だけでは次世代の超大型コンテナ船への対応が難しいとして洋山島に大喫水の新ターミナルを建設。アクセスは諸島間を橋で結んでいる。市内では高速道路や地下鉄が次から次へと建設され、市内の交通事情は驚くほど改善された。

ただ、計画のスピードが早かった分、ひずみも大きかった。2000年代の中盤~末は全土がインフラ建設でほこりだらけとなり、工場の生産拡大や車の増加による排気問題で大気汚染は最悪の状況となった。また、新幹線や地下鉄で技術的な原因の大事故が頻発するなど粗製乱造の様相が多々みられた。

2010年には国内総生産(GDP)が日本を抜いて世界第2位となる。中国には「4000年の栄光と100年の屈辱」という言葉があり、このころよく耳にした。4000年は中国文明以来の歴史、100年は列強に蹂躙された近代の100年を示す。しかし、この言葉を中国人から聞くようになったのは100年の屈辱(が尾を引く低迷)は過去のもので、今は栄光の時期に戻ったという自信の表れである。

2012年に習近平氏が党総書記(翌年国家主席)となるが、ちょうどこの年の秋に尖閣諸島問題が起こり、日中関係はこれを境に悪化の一途となった。このころから海軍の東シナ海、南シナ海への進出が毎年顕著になった。前後してロシアのボロ船を購入、改造して航空母艦にしたが、いまは性能を上げた3隻の空母を持つに至った。一帯一路政策で味方につけた中東、アフリカ諸国も多く国際社会での影響力も増した。今月16日から始まった中国共産党大会で、習近平国家主席が3期目に向けてどのような施策を示すのか、注目するところだ。

著者プロフィール

葉山明彦

国際物流紙・誌の編集長、上海支局長など歴任

40年近く国際関係を主とする記者・編集者として活動、海外約50カ国・地域を訪問、国内は全47都道府県に宿泊した。

国際物流総合研究所に5年間在籍。趣味は旅行、登山、街歩き、温泉・銭湯、歴史地理、B級グルメ、和洋古典芸能、スポーツ観戦と幅広い。

無料診断、お問い合わせフォームへ