続・徒然日記

イエメン紀行

2023年6月21日

『続・徒然日記』
葉山 明彦


私が訪れた海外諸国・地域の中で、強く印象に残っている国がアラビア半島の先端にあるイエメンだ。1994年なのでもう30年ちかく前のことだが、当時LLDC(後発開発途上国)といわれたこの国に行った時は内戦前夜で、首都に入る道で軍の検問を受けたほか、山岳部の古代から続く要塞都市への道では4WD車が路肩で脱輪し、しばらく車を押すなど苦労したが、たどり着いた目的地はすばらしかった。

地図【出典】(地球の歩き方/ドバイとアラビア半島の国々)

そもそもなぜイエメンに行ったかというと、当時私の会社が客船クルーズ雑誌を発刊し、別部門だった私が休みを消化して乗船記執筆のお手伝いに借り出された。当時若かった私も客船、しかも未知の国々に行けるとあって意気揚々と日本を出発した。コースはボンベイ(現在のムンバイ)で乗船しオマーン、イエメン、エジプトと10日ほどクルーズし、最後はスエズ市で下船した。乗船した船会社の客船運営は、冬場は東南~南アジアのツアーに船を投入し、春から秋まで欧州で稼働させるという。この時の中近東クルーズはアジアから欧州に船を移すつなぎのクルーズで、イエメンは中間地点の給油基地ということもあったのだろう。

寄港したのは南イエメンのアデンと北イエメンのホデイダという2港だった。アデンの方は普通に観光ができた。アデンを少し紹介すると、インド洋と紅海の分岐にあるこじんまりした港町で、クレーターという名のまさに火口跡に旧市街や市場、イスラム寺院が存在する。しかし、町の周囲はいかにも火山帯というゴツゴツした岩で殺風景だ。古くから英国の支配下にあったが、植民地経営の補給や中継地の要衝として発展した町だ。ここでは後述する内戦の雰囲気はまったくなかった。

いろいろあったのは、翌々日、紅海にあるホデイダという北イエメンの港に寄港してからだ。この日は山上の要塞都市ハジャラ(地図・マナハから入った山岳地の村=未記入)を観光する計画だったが、まず不思議に思ったのは、観光バスをずうっとパトカーが尾行していたことだ。客船には富裕層が乗っていることが多く、途上国ではバスが襲撃に遭うこともあるのでパトカーが同行警備(お金を払って傭う?)していると説明された。首都サナアへの幹線上にあるマナハに着くとバスは停止させられ、銃を持った兵隊がバスに乗り込んできた。バスでは事前に検問があるのでパスポートを見せるようにと言われていたが、銃を持った兵隊だったのが気になり、バスの添乗員にここはどういう場所なのか尋ねると、「イエメンのチェックポイント・チャーリーだ」とわかったような、わからないような返答だった。チェックポイント・チャーリーとは東西冷戦時代の東西ベルリンを行き来するゲートで、そのことは知っていたがイエメンは(それまで南北に分裂していた)国家が数年前に統一されたはず――。後でわかったのだが、この時イエメンは内戦前夜で首都サナアでは厳戒体制がとられていたという。

イエメンの歴史は近世のオスマントルコ支配を経て、1918年に北部を中心にイエメン王国ができるが、アデン一帯の南部は英国が占領していた。62年に王政が打倒され共和国となり、南部も67年に英国から独立するが、ソ連の影響が強く後にマルクス・レーニン主義国を唱った人民民主共和国となって南北並立。しかし、ソ連の崩壊で90年に統一され、私が訪れた94年は統一国家イエメン共和国となっていた。

そうは言っても長い間の南北分断の火種は消えず、実際にこの2日後に南部再独立を求める武装蜂起があり、それはすぐ鎮圧されたが、我々一行はそんな状況下でこの国を“観光”することになった(1カ月後に再蜂起があり内戦が2カ月続いて政府軍が鎮圧。その後現在まで紆余曲折するがここでは省略)。そんな状況下で、旅行主催者はよく観光を決行したと思うが、プラン(実施しないと主催者がバスや予約施設、旅客にキャンセル料を支払う)上ギリギリのところで大丈夫と判断したのだと思う。

マナハからは4WDに乗り換えて要塞都市のある山岳地帯に向かったが、今度は定員オーバーで谷あいの路肩が弱い道で車が脱輪した。すると若者は下りて車を押せということになり、私は真っ先に下ろされてこの力を使った作業に当たらされた。結果的に数人の後押しで車は動いたが、片側が深い谷の迫る道で作業には肝を冷やした。車はどんどん高度を上げて走っていくと山上の急峻な崖に彫刻のように林立するビルのような建物群が現れた。これが山上のハジャラの要塞都市だ(写真①)

ハジャラの山上の要塞都市

写真① ハジャラの山上の要塞都市

ここは標高2300mだが、千年の昔から崖上にこれら建造物が建てられ、いまでも村民が住んでいるという。イエメンはむかしから部族間の争いが絶えず、防衛のため険しい山上に要塞のような集落を形成したという。石は下から運搬され、一つ一つが精巧に削られ積み上げられている。そして運搬の主力はいまでもロバだ(写真②)。物資を背に石の段をゆっくりと登るその姿は、まさに悠久のシルクロードにタイムスリップした感じだった。

写真② ロバが運搬の主役だ

ハジャラをゆっくり見学した後、午後は少し下った村にある食堂でイエメン料理と原産のモカ・コーヒーをいただき、帰りは船まで無事にたどり着いた。ホデイダを出航して2日後、前述のとおりサナアで戦闘があった。ギリギリのタイミングで無事、イエメン観光を果たすことができた。その後、イエメンを訪れたという人は聞いたことがない。内戦が収まっては始まるのを繰り返し、政情不安が常態化して、なかなか一般人が訪れうる機会が来ない。現在ではサウジアラビアが支援する暫定政府(スンニ派)とイランを後ろ盾とする反政府武装組織(シーア派)の対立に加え、イスラム過激派の国際テロ組織アルカイダの勢力拡大が絡んで戦闘が繰り広げられているようだ。ハジャラはその姿を外部に見せることなく、太古からのゆっくりとした時の流れをはぐくんでいるに違いない。

著者プロフィール

葉山明彦

国際物流紙・誌の編集長、上海支局長など歴任

40年近く国際関係を主とする記者・編集者として活動、海外約50カ国・地域を訪問、国内は全47都道府県に宿泊した。

国際物流総合研究所に5年間在籍。趣味は旅行、登山、街歩き、温泉・銭湯、歴史地理、B級グルメ、和洋古典芸能、スポーツ観戦と幅広い。

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