徒然日記

あれから10年

2021年3月17日

『徒然日記』 

 

始めに、前回話題にした「桜開花予想<600度~620度説>のおさらいをします。東京の開花発表は14日午後2時(我が集計では609.4度)でしたが、横浜は同じ時点ではまだ、(596.4度)で未開花でした。

と言うことでしたが、本題に入ります。

当たり前と言われそうですが、「大事件が起きた時に、自分がどこにいたか」をかなりはっきりと覚えています。例えば「ケネディ大統領暗殺」「阪神淡路大震災」「アメリカ同時多発テロ事件」など。そして、10年と6日前の3月11日の東日本大震災のことも勿論。

購読している新聞の投稿募集に「東日本大震災10年」とありましたので、早速応募しましたが、当然のことながら「落選」。思い直して(二番煎じ!?)で、この文章を書き始めました。

あの日、2011年3月11日、地震発生の14時46分。私は、国土交通省の屋外受付で、「入館願い」に記入していました。その時、突然大震動が発生。目の前に見えた、建物屋上の「パラボラ・アンテナ」が音を立てて激しく震え、近隣の高層ビル群が、隣のビルと接触しそうな状態で左右にゆっくりと揺れていました。地震が収まったあとも暫く、ビルは揺れ続けていました。

「天下の国交省のビルが崩壊することは無いだろう」と入館して、担当者としばし打ち合せをしていましたが、その間にも何度も大きな余震がありました。

買ったばかりのスマホで確認をすると、津波が押し寄せて、建物が流されていく光景が、次々と映し出されていて、「大変なことが起きた」ことを、大きなショックと共に実感しました。

打ち合せと言うよりも、刻々と入ってくる「地震情報」に話しが移ってしまっていました。

打ち合せを終えて帰路についたのですが、交通機関は全てストップ。とりあえず5kmほど先の渋谷駅まで行こうと歩き出しましたが、同じ思いの人の波で道路は人・人・人。不思議なことに、歩いている途中で小さな子供には1人も会いませんでした。緊急下校をしたか、保護者がすでに自宅へ連れ帰っていたのでしょうか。

スマホは、先程来の情報チェックや、関係先や我が家への安全確認などをしているうちに、使いすぎて電池切れ。やむを得ずと思って公衆電話を探しましたが、ドコモ長蛇の列。やっと順番がきたので「通話を」と思ったのですが、テレカ使えず、10円硬貨の手持ちは無しで、以後の連絡は出来なくなりました。

暫く歩いていると、青山学院のところに出ました。すでに「帰宅困難者の受け入れ」を始めているようでしたが、まだ「宵の口」になっていない時刻でしたので、歩き続けました。

そこでふと気付いたのですが、もう暫く歩いた先に、私が勤務していた会社系列の「地ビール・レストラン」があるではないですか。

早速ドアを開けて入ったところ、中にいた顔馴染みの連中に「エッ、なんでこの時間にこんなところに?」と驚かれました。数店舗ある所属店の様子確認ということで、会社の社長や幹部連中が鶴首会談をしていました。この店はあの揺れにもかかわらず、棚に置いたワインなどの飲み物や割れやすいグラス類に被害がなかったということで、一安心しました。

当然ですが、当店の本日の予約は全て取り消し、飛び入り客も無しで、「お客様」は、私1人。そこで、店の連中と世間話をしながら地ビールと料理のひととき。確かビール一杯はサービスして貰ったと思いました。

やがて「丑三つ時」そろそろ行ってみるかと、人気の途絶えた宮益坂を下って渋谷駅へ。こちらも「帰宅困難者の行列」。しかし、電車が出る気配無し。「いつ出るか分かりません」のアナウンスに、行列を離れる人がぼちぼちと出てきました。そのような状況の中、持ち前の社交性(?)を発揮して、周囲の方と楽しい会話を交わしたり、レストランでしっかり両替をしてきた「10円硬貨」であちこちに電話をしている内に、私の乗ろうとしている田園都市線が動くということで、飛び乗りました。

それやこれやを経て、明け方近くにやっと我が家にたどり着いたのですが、その時の教訓から、「スマホの充電ケーブル」と「10円硬貨」と「懐中電灯」は、以後常時携帯しています。

実は私2010年の5月19日号から隔週でこの「徒然日記」を書かせていただいていますが、この「東日本大震災が起きた直後の「3月23日(第43号)」とその次の「4月6日(第45号)」で、地震について触れていました。ご興味あれば、クッキー編集長にお許しをいただいて、その号をお送りしますが、おそらくいらっしゃらないだろうと思います。

懐かしさで読み返してみました。【“大きな不安”とそれを打ち消したい“ささやかな希望”の交錯する気持ちで過ごしたトータル7時間の後、「動き始めた電車に飛び乗って♪(こんな歌謡曲昔聞きました)『奇跡的(ちとオーバーですね)』に我が家に帰還しました。」】という馬鹿馬鹿しいこと(今も変らずですが)を書いていました。

さらに、その次号では、「買いだめや品薄品が解消した」と書いた中で、【そのような中で品薄品を探すと有りました!水、ヨーグルトそしてなぜか“納豆”。さらに、愛知県豊田市に住む「某自動車会社役員の従弟」から電話があり、「単1の乾電池がない。計画停電対策で買い置きをしようとしても<単1電池>だけが手に入らない。」とありましした。

以上含めて、「天災は忘れた頃にやってくる」を思い出していただき、この機会にもう一度あの日のことを思い起こして「再装備」に努めましょう。

著者プロフィール

小泉武衡

職歴
 元 寺田倉庫株式会社 取締役


1964年より「物流業」に携わり、変化する“各時代の物流”を体得するとともに、新たな取り組みとして「トランクルーム」や「トータル・リファー・システム(品質優先ワイン取扱い)」事業に力を入れてきました。さらに、営業・企画・渉外・広報棟ほか、倉庫スペースを利用した「イベント事業責任者」などを歴任し、旧施設の新たな活用、地域開発、水辺周辺の活性化に尽力してまいりました。

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