徒然日記

あの頃のこと

2021年10月27日

『徒然日記』 

 

「緊急事態宣言」が解除されて、1ヶ月近くが経過しました。首都圏における「感染者数」はこのところ「二桁台」をキープしています。しかし、「新型ウィルスが出現して『第六波』襲来」が懸念されています。そこはなんとか、このまま終息に向かってくれることを祈っています。

そうした中で、二週間前に「1年振りを遙かに超えた“久しぶり”」に、東京の「国際物流総合研究所」に出掛けました。そしてこれまた久々に、飲兵衛仲間4人で「焼き鳥屋」に。

「クラスター」の心配がありましたが、4人とも「ワクチン注射2回接種済み」なので「感染」の心配は無いと思いましたが、その後4人とも、平熱を保ち「良く食べ良く飲み」しているようですので(勿論私も)、安堵しました。

ということですが、「なんで、そのような話しをしているの?」と、疑問に思われる方がおいでだと思いますので、説明させていただきます。

その「4人の飲み会」で、話題がなぜか「玉音放送」になりました。その中の約一名(以後「A氏という」)から「その時あなたはどうしていたか」を含めて、「終戦前後の話」を、この「徒然日記」で書くようにとの「ご下命」を頂きました。

玉音放送、即「終戦日」の1945年8月15日、私は「6歳の小学校一年生でした。そこで、私の息子より若い「A氏」にお応えすべく、話を本筋に入らせていただきます。

毎年8月15日になると、必ずテレビから昭和天皇の玉音放送「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す」が聞こえて、「皇居前で、土下座でひれ伏している人々」が写し出されます。

その「A氏」に「その時あなたはどこに居たか?」と問われました。

学童集団疎開が1944年8月に始まりましたが、未就学児童の私は、その遙か前に、茨城の遠い親戚に「単身疎開」させられており、終戦の年に小学校に入学しましたが、「東京から来た子供」と言うことで、イジメに遭い「不登校児」。夏休みを待たずに東京下町の「奇跡的に残っていた一角にあった我が家」に戻ってきました。3月10日の「東京大空襲」を初めとするB29の爆撃で、東京は勿論のこと全国至る所が焼け野原。我が家の前の道路を隔てた向かい側は、家一軒無く、1kmほど先の常磐線の二駅がしっかりと見えました。

その8月15日の玉音放送ですが、まったく記憶に残っていません。しかし、思いおこせば、放送が始まる前に、お小遣いを渡されて、近所の駄菓子屋に喜んで出掛けていった記憶が蘇りました。

というところで、話をそれ以前に戻します。

米軍の日本本土空爆は1942年4月に始まりました。「灯火管制」ということで、灯はほとんど消えて、窓ガラスには網の目のように、新聞紙などを貼り付け、一階は土間を作りそこを掘って「防空壕」。サイレンが鳴って「敵機襲来」となると、地下の防空壕に息を潜めて隠れるという毎日でした。

疎開した茨城の農家の畑にも大きな防空壕が有り、サイレンが鳴り、ラジオからの「鹿島灘上空に敵機襲来」の放送を聞くと、その防空壕に逃げ込んでいました。低空飛行をしてきた戦闘機から、時折機関銃での機銃掃射が有り、地面に一直線に土煙が上がっていました。屋根すれすれまで降りてきた操縦室の若い米兵の顔がはっきりと見えて身震いをしたこともありました。

そうした際の、不発弾や薬莢は、しっかりと集めて、町会のブロック長に届けました。

その訳は、戦局が激化した1943年8月に「金属類回収令」が発令されました。「武器生産に必要な金属資源」の不足を補うための「献納」が行われ、東京の我が家からも金属類は一切姿を消しました。子供達の届け物も立派な「献納」でした。

田舎の小学校は疎開先の農家から30分ほどのところにありました。サイレンが鳴って、敵機襲来となると、生徒達は家に帰らされましたが、帰宅途中に機銃掃射で亡くなった友達も居ました。

そして東京に戻った1~2ヶ月後に終戦。「あの凶悪極まりない米軍部隊」が日本に上陸してくると思うと、怖くてしかたがありませんでした。事実、時折ジープに乗ったり、付近を歩いてくる「アメリカ兵(GI)」の姿がありました。「女性はなにをされるか分からないから、そういうときは隠れるか、出来れば家から出ない方が良い」などと言い聞かされていました。

ジープに載って通り過ぎる「GIキャップ」のアメリカ兵の姿を、近所のお兄さんが、地面に白墨で書いて、私が怖がって慌てて消すのを面白がっていましたが、そのうちに、通り過ぎるときにガムやキャンデーを恵んでくれたり、微笑んで頭をなでてくれたりするアメリカ兵と接しているうちに「彼等は悪い人でも殺人鬼でも無いんだ」と思うようになりました。

終戦後の時期は、食べるものがほとんど無く子供達はおなかをすかしていましたが、確か小学校2年か3年の時に「学校給食」が始まりました。といっても極めて質素な内容で、私の記憶に残っているのは、肉で良く登場した「鯨肉」。硬くてかみ切れない、とんでもない代物でした。主食は今では見かけない「硬くてまずいコッペパン」。飲み物は、アメリカの民間救援団体<LALA>が提供してくれた「脱脂粉乳」で作った白い水のようなミルク。

時代が変わって現在では、「鯨肉」は捕獲枠が厳しく定められていて手に入りにくい高級食材。「脱脂粉乳」は捨てるくらいならあげちゃおう」という「不味い給食」のイメージから脱却して、「スキムミルク」という上品な名前がついて、パン作りのレシピには欠かせないものとなっています。

かようしかじかで、「A氏」のお誘いに乗って、70数年前のことを思い出して書きましたが、

「戦争」や「玉音放送」と随分かけ離れてしまいました。「Aさん!」・・・お許しください!

そして「クッキー編集長」。長くなってすみません!

著者プロフィール

小泉武衡

職歴
 元 寺田倉庫株式会社 取締役


1964年より「物流業」に携わり、変化する“各時代の物流”を体得するとともに、新たな取り組みとして「トランクルーム」や「トータル・リファー・システム(品質優先ワイン取扱い)」事業に力を入れてきました。さらに、営業・企画・渉外・広報棟ほか、倉庫スペースを利用した「イベント事業責任者」などを歴任し、旧施設の新たな活用、地域開発、水辺周辺の活性化に尽力してまいりました。

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