徒然日記

新たなる年にあたって

2022年1月5日

『徒然日記』 

令和4年(2022年)が「幕開け」しました。

「明けましておめでとうございます」。

この「ILR&S-News」をご覧くださっておいでの皆様。本年も、引き続きましてのご支援。よろしくお願い申しあげます。

初めに申しあげておきますが、今年は私の干支「寅年」です。何か良いことがあるように祈っています。

本日は1月5日(水)ですが、関東人の私にとって、7日までが「松の内」です。ということで、まだまだ「めでたさ」が溢れていますので、連日一献傾けています(正確には「二献も三献も」)。

そのような中で、「新年にふさわしいニュースは無いだろうか?」と探しました。

そして、三が日での話題というと、毎年恒例の箱根駅伝(正式名称「第98回東京箱根間往復大学駅伝競走」)です。私は2日間テレビにかじりついて「観戦」していました。

そこで、気付きました。今の時期「カンセン」と打つと、まず「感染」が出てきますね。

「おとそ気分」の抜けない松の内ですので、今回は「いささかの手抜き」(いつものこと)。めでたさに免じてご勘弁いただき、この「駅伝競争」について、述べさせていただきます。

「駅伝」という言葉は、遙か昔、駅馬や伝馬を使って、手紙や物資、使者を送る「駅伝制」が命名由来だそうです。飛脚も加えて、東京~大阪間約500キロを、10km間隔の宿場単位で、3~4日かけて走っていたそうです。

そして、日本で初めての競技としての「駅伝」が行われたのは、大正6年(1917年)の「東京奠都(てんと)記念東海道駅伝徒歩競争」です。その年が「明治天皇が京都から江戸城へ移動されてから50周年目にあたる」ということで、当時の読売新聞社会部長の土岐善麿氏の発案で開催されました。京都~東京間の走路も、この行幸になぞらえて、同じでした。

余談になりますが、この土岐善麿氏は、私の出身母校、某都立高校の「校歌作詞者」です。

話を戻します。開催にあたって大日本体育協会の武田千代三郎氏が、前述「東海道53次の駅伝制(駅馬・伝馬制)からヒントを得て『駅伝』と名付けた」ということです。

関東組と関西組の2チームが、京都府の三条大橋から東京都の不忍池までの508km(23区)を、昼夜を問わず3日で走り抜けるという競技でしたが、先にゴールをしたのは関東組でした。

その際の関東組のアンカーは、日本人として初めて明治45年(1912年)の第5回ストックホルムオリンピックに出場したマラソン・ランナーの金栗四三(かなくりしそう)選手でした。ところがその際、残念なことに、金栗選手は、途中で道を間違えて行方不明となり、途中棄権という結果に終わってしまいました。現在なら大騒ぎして捜査に当るでしょうが、「はいそれまで」のようでした。

その件に関して、私の記憶にもしっかりと残っている「後日談」としての、有名なエピソードがあります。

その金栗四三氏は、昭和42年(1967年)の、「ストックホルム大会開催55周年の記念式典」に招待されましたが、そこで競技再開して、スタートから54年8ヶ月5時間32分20秒3という「オリンピック史上最も遅いマラソン記録」での完走となりました(1983年没「92歳」)。

駅伝スタートの「三条大橋」と、ゴールの「上野不忍池」に「駅伝発祥の地」の碑があります。

ふつう「碑」というと、黒っぽい何の変哲も無い、ドカンと鎮座ましましている石に、芸術的な文字が刻まれているスタイルをまずは頭に描きますが、我が地元上野公園の不忍池弁天堂の入口左側に、池を背にして置かれている「碑」は、丸みを帯びたカラフルにしてお洒落な碑です。

そこには、このような言葉が刻まれています。

「駅伝の歴史ここに。始まる」。我が国、最初の駅伝は、奠都五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競争」が大正六(1917)年四月二十七日。二十八日、二十九日の三日間にわたり開催された.スタートは、京都・三条大橋、ゴールはここ東京・上野不忍池の博覧会正面玄関であった】と。

その、「奠都記念駅伝」が、大成功を収めましたので、そのことに刺激を受けて、大正9年(1920年)に「箱根駅伝」が始まりました。第1回は箱根観光の閑散期の2月。2回目からは1月上旬の不特定日開催でしたが、昭和30年(1955年)の第31回大会から、現在の1月2日・3日となりました。

往路五区、復路五区の計十区で争われますが、花形選手が揃う二区は「花の2区」といわれて注目されています。さらに5区の箱根の山登りでは、印象に残った選手は「山の神」と呼ばれ、名前が知れ渡ります。当時:東洋大学の柏原竜二選手が「山の神2代目」として、長らくその名をとどろかせていました。

書かないと叱られますので追記しますが、我が娘の連れ合いの出身大学の神野大地選手が「山の神3代目」といわれ、この人も有名です。昨年12月19日の「防府読売マラソン」で、首位と同タイムの「堂々2位」でした。 

続けます。肝心の今年の「カンセン記」ですが、娘の連れ合いの母校は、原監督も「ハラハラすること無しのダントツ1位」。

そして、娘と私の母校は13位と14位で、ともに「シード落ち」の悲哀。来年の予選会組となりました。

ところで、出場した大学OBの皆さんの「母校はいかがでしたか?」

ということで、2022年幕開けです。本日含めて<361日>。「オミクロン」を吹き飛ばして、一路邁進しましょう!

二度接種/三回目には/そっと出し(詠み人知らず)

著者プロフィール

小泉武衡

職歴
 元 寺田倉庫株式会社 取締役


1964年より「物流業」に携わり、変化する“各時代の物流”を体得するとともに、新たな取り組みとして「トランクルーム」や「トータル・リファー・システム(品質優先ワイン取扱い)」事業に力を入れてきました。さらに、営業・企画・渉外・広報棟ほか、倉庫スペースを利用した「イベント事業責任者」などを歴任し、旧施設の新たな活用、地域開発、水辺周辺の活性化に尽力してまいりました。

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